歯学部史の一断面

東北大学名誉教授(元口腔生化学主任教授)
山田 正

東北大学歯学部の発足については、医学部長であった本川弘一先生(後に東北大学学長)が愛知揆一衆議院議員などに働きかけ、努力されて実現したことは、弘一先生のご長男で私の同級生である本川雄太郎君(徳島大学教授名誉教授、故人)から、何回か聞かされた。

本川先生が初代の歯学部長、その後、中村隆先生が2代目で何れも医学部長を兼任されていた。発足は、医学部講堂の中の一室から始まり、東京医科歯科大学歯学部生化学の教授であった荒谷真平先生が理想を背負って仙台に赴任された。

医科歯科大学で硬組織の研究をしていた彼の理想の一つは、東北大学で齲蝕の研究を細菌の面からしたいということで、大学院修了後、無理矢理(本人の意思を無視して)医学部第一医化学教室で助手をさせられていて、細菌を使って生化学の研究をしていた私と、農学部の技官をしていた樋口允子氏が歯学部の助手として招聘された。

助手になってから間もない私は、父の後を継いで伊豆で開業医をするということを放棄する覚悟を決める必要もあり、荒谷真平先生について色々と調べたところ、大変、穏和な人格的に優れた人であるとのことで、淋しそうな顔をする両親に決意をのべ、歯学部に移籍することの承諾を得た。

とりあえず、私の恩師である菊地吾郎先生の主宰する第一医化学教室の一角を借りて研究を始め、第1回生が学部へ進学してくるとのことで、医化学教室の実習室を借りて実習を始めた。新潟沖地震があり、実習室から庭へ飛び出したのもこの頃であったと思う。

口腔外科を担当することが内定していた前田栄一先生は、歯学部へ移った私を、医学部口腔外科教室の一室に呼んで激励し、酒をご馳走してくれた。そこで、後に歯学部を担うことになる、徳植、大村武平、加藤伊八、丸茂夫妻など各先生と顔見知りとなった。前田栄一先生の誠意は、後に、スウェーデンに行くとき、子供の発熱で、仙台駅を元旦の朝に発つことになった私を、駅まで見送りに来ていただいたことで心に浸みて感じさせられた。心より感謝の言葉を述べる私に、「君は歯学部の将来を担うのだから」と激励の言葉をかけていただいたことは、生涯忘れがたい。

病理学の教授として山本肇先生が赴任され、医学部の鳥飼内科の病室であったところ(我々は「馬小屋」と言っていた)に歯学部が移り、我々の実験室もそこに移った。しかし、木造の建物の床はゆがみ、水平に設置する必要のある遠心沈殿器は、床のゆがみを考慮して、設置できる場所を見つけるのに苦労するという状態で、器具を洗浄するためのクロム硫酸の桶は、トイレに置くという悪条件であった。後に、北里大学から技官として赴任した岩見憙道氏(元助教授)は、恩師から、「遠心器と分光々度計しかないところだが」と聞かされて、まさかと思っていたが、本当にそう言う状況で、びっくりしたと言っていた。

歯学部に移籍して驚いたことは、これから研究しようと言う齲蝕という病気が細胞の全くないところで起こり、医学部で勉強してきたウィルヒョウの細胞病理学の概念が全く通用しないことであった。もう一つは、齲蝕を起こす歯垢中にどのような細菌がいるかよくわかっていないことであった。生化学を専攻した私が、どのような細菌がいるか、調べるのも自信がなかったし、口腔細菌学講座の教授となった日沼頼夫先生(籍は歯学部であったが、ほとんど医学部の細菌学講座におられた)は、そのようなことをする気は全くなく、やむを得ず、歯垢を採取して、酸をつくらせてみるような実験をしていたが、ちょうどその頃、 Streptococcus. mutansの再発見があり、この微生物について研究をすることにした。

坊ちゃん顔の佐伯解剖学教授、理工の本間助教授、次いで川上教授などが相次いで赴任され、賑やかになった歯学部の一室に図書室ができた。夜になると、教授も助手も技官もこの部屋に集まって、酒を飲みながら、歯学部のあり方や将来について熱っぽく語り合った。荒谷真平先生(3代目学部長)は、「考える歯科医」「未完成教育」「一口腔単位」などという理念を提唱され、その考えは、本日まで受け継がれていると思う。この中で、「未完成教育」については、間違って解釈されている向きもあるので、ここで、きちんと述べておきたい。

「未完成教育」について、私はインターンのときの経験を荒谷先生にお話ししたところ、先生は将にその通りと膝を打って同意された。それは、インターン生が下痢と腹痛を訴える患者を診たときの話である。

あるインターン生はお腹の触診など一通りの診察を終え、「急性腸炎でしょう」と患者に述べ、下痢止めや鎮痛薬など対症療法の薬を与えて患者を帰す。臨床医として患者の信頼を得ることになる。しかし、これは、小さく完成した医師であろう。

もう一つのタイプは、下痢と腹痛を訴える患者を前にして、「これは、赤痢ではない、チフスではない、虫垂炎でもなさそうだ」と頭を抱えて考え込み、理論的考察を繰り返し、挙げ句の果ては、教科書を調べに行く。患者を前にして考え込む若い医師の卵は、患者にはとても頼りにならない未完成の医師と受け取られる。

数年して、これらの医師の卵はどうなったか。

小さく完成した人は、それなりの医師として過ごしているが、それ以上は伸びない。一方、頭を抱えていた未完成医の卵は、数年後には優れた医師として、さらにその実力を伸ばし続けている。

このような、未完成歯科医師を大学では教育し、完成は卒業後の実地経験で自らの勉強に任せると言うことで、「考える歯科医師」と共通する意味を持っているのである。大学での教育とは、将来の勉強のための基礎をしっかりつくることであると言う理念で、東北大学歯学部は始まっている。

しばらくして、病院長予定の村井教授や砂田、吉田教授など臨床の教授が赴任してきた。荒谷教授から、これらの教授達を聴衆として、「東北歯学談話会」という、歯学部の意見交換会で、私に齲蝕の話をするようにとの話をされた。

齲蝕や歯周病の専門家に向かって、私のように医学部から来たばかり若造に齲蝕の話をしろとは無茶だと思ったが、とにかく、日大の押鐘教授の監修で、多くの歯学部の研究者によって書かれた「歯学生化学」という分厚い本を必死に読み、論文を漁って読みふけったが、齲蝕の病因に付いてははっきりした結論がなく、記載もまちまちである。ともかく、ありったけの知見を集めてびくびくしながら教授連を前にして講演した。どんな厳しい質問が来るかと覚悟を決めていたら、意外に初歩的な質問が多く、齲蝕を治療している専門家が、齲蝕の病因については極めて無頓着なのに驚いた。

よくよく考えてみると、齲蝕を治療するのに、それがどうして起こったかを考慮することはあまり必要ない。乱暴な言い方だが、齲窩があるので、それを削ってきれいにして、何かで埋めればよい。どのようにして齲蝕が起こったかは、あまり考える必要がない。そのように考察し、「歯科医はdental carpenter」だと言ってだいぶ顰蹙を買ったのもその頃である。

そのうちに、東大のインターン問題から端を発した、いわゆる大学紛争が東北大学に飛び火し、歯学部ではフセイン問題もあり、その処理が長引いた。

教授と学生会がもみ合っているなか、助教授以下の中堅教官や技官が何もしないでいるわけにはということで、大村武平(口腔外科)、高木興氏(予防歯科)氏らと相談して、教室委員会なるものを立ち上げ、教授と学生だけではなく、歯学部の他の構成員の意見を提示することになった。

そのときに、委員長の人選を、大村、高木氏と私で、予防歯科の医局で夜遅くまで議論し、口腔外科の手島講師がその包容力が大きいということで、高木氏の強い推薦で担ぎ上げることにした。副委員長には大村、山田で、高木氏は無役の黒幕(?)ということで、体制が決まった。

事実、手島先生(後の口腔外科教授)は、大村、山田、高木らの過激な意見をフンフンと聞いて、おもむろに実行してくれたが、時には抵抗して、我々の手を焼かせることもあった。何れにしろ、リーダーとしての貫禄もあり、担がれ役としても最適任であった。

学生会は渡辺誠(後に学部長)、伊藤秀美、丸橋賢などの一回生と、細谷仁憲(現宮城歯科医師会会長)という二回生が中心であった。個性的な面々で、その善悪は後世の判断に任せるとして、何れも個性豊かな若者であった。それぞれ、個性的な人生を送っているようである。

教室委員会も理論武装をしなければならないので、夜遅くまで、予防歯科学教室の医局で酒を飲みながら、ケンケン・ガクガクの議論を重ねた。文系思考の高木・大村氏に、理系バカの山田が一人で抵抗する場面が多かったが、ときには高木氏が、私が出世主義であると非難することもあった。

しかし、後に、高木氏が長崎大学で歯学部長となり、私は管理職ゼロの平教授を通したことで、学部長になった高木氏を飲み屋に誘い、昔、管理職をけなしていたあなたが学部長という管理職に就くのは何事かとさんざんこき下ろしたが、彼からはついに一言の反論もなかった。

大学紛争で得た物もあったと思うが、二つの損失があった。

その一つは、構成員の間に生じた亀裂が後々まで残ってしまったことと、この間に、研究に割く時間が少なくなり、また、その気運が失われ、研究の進歩を大きく遅らせてしまったことである。

私の自慢の一つは、このようなときに、大学紛争にも関与しながらも研究を続け、当時、歯科研究のトップの雑誌であったArchives of Oral Biologyに投稿して、論文を書いたことである。この論文を書くときに、東北大学本部の事務局に封鎖されてしまった荒谷学部長に差し入れのバナナとともに、論文原稿を届けて見てもらうことにしたが、結局、戻ってくることなく、教授に頼ることなく、私自身だけで、論文を書き上げ、編集者の Neil Jenkins教授(後に親しく交際するようになる)に丁寧に英文を校正していただき、受理された。この論文が高く評価され、後にスウェーデンの大学より招聘されることになる。

歯学部も医学部講堂の部屋から、鳥飼内科の病室後、抗酸菌研究所の位置に建てられた木造のバラック建築、薬学部移転後のコンクリートの建物(現在、医療短期大学)と移転し、助教授であった私もしばしばリヤカーを引っ張って引っ越しをし、医学部知り合いから「助教授は、リヤカーを引っ張るほど偉いのか」とからかわれた。漸く、恒久建築(旧臨床棟)に移ったときは、ホッとし、荒谷教授から、私が外国で研究することが許可された。

当初、ミュータンス・レンサ球菌による不溶性グルカンが重要な齲蝕の原因となるとの考え(ミュータンス・ストーリー)を信じていた私も、考察を重ねていくうちにこれに疑問を持ち、齲蝕の直接の原因となる酸産生の生化学的機構の研究をしていたが、歯学部内でも、「そんな研究をしても何ら臨床に役立たない」と言われ、不溶性グルカンの研究をしていると科学研究費がくるが、酸産生の生化学的機構という極めて基礎的な私の研究には科学研究費は全く付かず、十数年も研究費不足に悩まされていた。

しかし、ノーベル賞の国スウェーデンでは、私の基礎的研究を高く評価してくれ、結局、後に世界の教科書に載ることになる研究は、日本ではなく、スウェーデンで行われることになった。これら一連の研究は、現在では、齲蝕予防のための基礎的な研究として臨床歯学の理論的背景を支えていることを思うと、研究の評価の難しさと、その重要性物語っていると思う。

現在の、システムでは、私の研究は、その成果が出る前にとっくにつぶされて、私の首も飛んでいたと思う。大学のあり方として、十分に考えて欲しいことである。